昭和47年12月23日 朝の御理解



 御理解 第2節
 「先の世までも持ってゆかれ、子孫までも残るものは神徳じゃ。神徳は、信心すればだれでも受けることができる。みてるということがない。」

 真の信心をさせて頂いたら、誰でも受けることができるのが神徳。ただ信心しておるというだけではうけられない。おかげは受けられても、お徳は受けられない。どこまでもやはり、真の信心というところに焦点がおかれなければできん。ところがその真の信心というのが、なかなか、難しいですよね。難しいからこそ、受けるのは楽しいといということにもなるんです。誰でも受けられる、もうこんなに、こんなことだったら、楽しみとか、味わいて言うものがないと思う。
 誰でも受けられる信心、金光様の信心すりゃ誰でも徳が受けられる。けどもその受けられておらんのです。その事実がある訳です。そこでなら是は誰でもが受けられるものじゃない。それはなら真の信心と言う事にならなければです、ただお参りしよるから、拝みよるから誰でも受けられると言う事じゃない。そこで真の信心とはと言う事になる訳。みてると言う事はない、もう是でおしまいというこはない。もう限りがない。
 そこでね私は信心にはどうしても、あの楽しい信心楽しくでける所まで、信心を進めていかなければいけない。言うなら信心が楽しい、修行が楽しいと言う位な所までいかなければいけない。同時にね腰掛てはならない、どこまでも限りなくみてると言う事がないほどしのおかげを頂くために、限りなく信心というものが、成長していく成長が止まったらもうだめ。それは先の世までも持ってゆかれ、子孫までも残ると言う訳です。
昨日、一昨日の御理解の中にね、「信心浅けれど、本願深きがゆえに、頼めば必ず往生す」という、仏教の言葉がある。信心が浅いでは、頼めば必ず往生すと言う事。成程往生するかも知れないけれどもです、この世で往生することがでけない。この世で往生すると言う事は、もう神様にゆだね任せると言う事。もうどうにも仕様がない事を、よい往生したとこう言うでしょう。そこから始めて神様の前に無条件降伏がでける。いうなら神様任せにならして貰えれる信心がでける。
 そこからです、信心というものは、楽しい味わいというものが頂けて来るようになる。成程このまま行けば、あの世でもよい所に往生がでけるなあ、と言う事になる。ただ往生地獄で往生したっちゃつまらん。極楽に往生しなければ。だからその信心浅ければ、本願深きがゆえに、天地の親神様、いや弥陀如来様の心が深い、大きいがゆえにたまたま矢張りおかげは受けられるけれども、ただ浅いだけではいけん。信心をしておれば誰でもおかげが受けられるという、浅い信心ではお徳は受けられん。
 そこから段々深い信心所謂本願深ければとこう、深きがゆえにとこういう、その本願に、神の本当の願いにです、応えていかなければ。神の願いに応えていくという信心を、私は真の信心だと思う。神の願いに応えていく信心。神の本願に応えていく信心。それをこちらの願いばっかりを先に出しておいて、神様をね、言うこと聞かせようというだけの信心。そりゃ最近言われるここの五つの願いなんて言うなうよものは、これは神の本願に応える願いなんですよ。
 いかにもどうぞ健康であります様に、どうぞ家庭が円満であります様に、どうぞどうぞ子孫繁盛、家繁盛であります様にという、いかにもそれは私達の我情我欲を満たすための願いのごたあるけれども、そうじゃない事が最後の二つの願いで分かるでしょうが。そういうおかげを頂いてそれを力ともして、真実の御用ができますように、神の悲願に応えられる、神の神願成就のことの為に、奉仕しようという精神から生まれてくるものですから。しかもその一つ一つの願いには、条件がついている。
 どうぞ健康のおかげを頂かせて下さいというところには、もう不摂生な事は致しませんと。どうぞ家庭が円満なおかげを頂かせてせて下さい、と願うからには人を責めるような神の機感に叶わぬ心のある事どもをです、私どもの心から取り除かせて頂きますという、そこに誓願がある。神に対する子孫繁盛家繁盛を願うからにはです、仕事に忠実にならして貰います、又はあだやおろかに、物でも金でも使う様な事は致しませんという、常に引き当てになる所の信心がある。
 しかもそのおかげを頂いて、真実の御用に使うて頂きたいという、お役に立ちたい、お役に立ちたいという願い。それはどこのお役かというと神様のお喜び頂ける、お役に立ちたいお役に立ちたいという一念が、このことを願っておるのですから、もう立派な神の願いに応える信心。これを真の信心というのである。しかもです私一人ではない、もう家族勢を揃えてとこういうのである。自分に縁のある限りの人たちにです、これは頼んででも、その信心にならせて頂こうと、もうこれなんか大変なことなんですよね。
 神様の願い痒い所に手の届いたような感じです。氏子一人が助かるのじゃない、その一人が助かると、その縁者というものがです、助かって行く事になるのです。拘りのある人達がしかもそりゃおかげを頂いたものが、ね、勧めるとか言うて聞かせるじゃなくてね、頼んでもです頼んででも、そういう働きを広めていこうという、そこに助かる人が一人でも二人でも縁に任せてできてくるという、願いをどうでも立てると言う事。神様のお心に添う、言うなら神様のいうなら、痒い所にてが届くような信心です。
 合楽で言われておる信心は。しかもです私どもが二十年稽古をして参りました成り行きを大事にする、御事柄として全ての事を合掌して受けていくと言った様な生き方がです、実に楽しいもの、有り難いものになってこなければならん。これは言葉が一つちごうても、大変その気分が変わってきますから、ここんとこようと覚えといて下さい。一切が神の御働き神愛として、尊い気持ちで頂いて参りますと、ここが違いますね、私今まで言っておった事、尊い気持ちで頂いてまいりますとですよ。
 我々の一生がみな神になる尊い道行である事が、味合われる様になります。是は昨日私ここで頂いたんです。一切が神の御働き神愛としてです、尊い気持ちでですよただ受けていく、尊い気持ちでこれを頂いてまいりますとです、我々の一生がみな神になる尊い道行、道行というのは楽しいものです。私はよくこの辺のとこを、そいういうおかげをなら頂いたていけれる道すがらだと説きましたですね。
 道行というのは、お芝居でよくやるでしょう、恋の道行きと千本桜の、あのおかるかんぺいの道行きというときにつかいますね。道行ということを。道行というものは楽しいものだと。で、その、尊い道行であることがです、味あわれるようになります。神様になっていく、道すがらというのは、そんなに素晴らしいものです。ほらもう神様になるちゃ、そうにゃ、苦しいことじゃろうちゅうことは、ないのだ。もう楽しゅう楽しゅうです、しかもそれは、楽しいのですから、味あわれるようになる。
 もうここまでいったら信心は占めたもの、しかもなら皆さんご夫婦、親子というふうに、こうして朝参りをなさる。それこそ手に手を取っての道行きである。夫婦親子家族のものがです、手に手を取っての楽しい味わいというものが、味あわれるようになってくる。今のところ分かったでしょうかね。一切が神の御働き神愛として、いいですか尊い気持ちで、有り難い気持ちでです、信心さして頂いておらなければとても、こう言う事は分からない。肉眼を置いて心眼を開かしてもらう。
 所のおかげを頂かなければ、とてもそれを有り難くは頂けてはいけない所を、尊い気持ちで頂いてまいりますとです。我々の一生がみな神になる尊い道行だ、と言う事なんです。いうならこの世で極楽に往生しておるものの姿であると私は思うですね。こういう信心にならなければです、みてると言う事がないというほどしの、おかげは御神徳は頂けないと思う。信心さえしよりゃ誰でも頂かれる、もう合楽に参りよりものは、皆神徳が受けられると言う事ではない。今私が申しました様な所をです辿らせて頂く。
 昨日ある方のお取次をせて頂いたら、あれはあの広重だったでしょうか、だれだったかあのあの浮世絵、浮世絵ていうよりもあの、風景画のですね、あれは広重この富士山をたくさん書いた人は誰じゃったですかね、高橋さんあれは広重じゃなかったかね、あれは五十三次でしたもんね。あのこう大きな波をねこう書いて、そん波の合間から小さい富士山がのぞかれておるという、あの絵を描いたひとです。もう素晴らしい構図の絵がありますね。あれを頂くんですよ。
 こう波の間から富士山がのぞいておるという富士山は小さくしか見えない。そりゃ素晴らしい、そういう素晴らしい例えば富士山でもです、んならそばにおったりすると、分からんですこれは。所謂その道を分けてはいったらです、まあ富士山はそばから見たら、ちょいと絵のごと美しいけれども、もうそれこそ溶岩でごろごろした石が、いっぱい。これが富士山じゃろうかと思うようにある。
 東西南北どこから眺めても素晴らしい、すぎのあの富士の偉容というか、その形というか実にその、素晴らしい姿形であるけれどもです、そばにおってはそれが目に分からない。中に入ったら愈々それはいわばなんちゅうか、ごろごろした石ばっかりの山であるということ。信心もねあんまり例えばあの、側におらずに遠くから眺めるとね。合楽教会の場合なんかは、昨日学監であります永井肝四郎先生から、葉書を頂いた。その中にこの頃久留米のご大祭に講師として見えたときに、こちらのご本を一冊頂いた。
 おそらくあの親先生が上げられたと思いますね。誰も上げるものはおらん。それをね繰り返し繰り返し、所謂熟読させて頂いておると。最近はおかげの泉を、読ませて頂いて同時にまた、合楽からみえる修行生の人が沢山、ま見えておるけれどもその修行生の人たちを見ておってです、合楽の先生の御神徳のほどがしのばれる、という意味の事が書いてある。是はまあ私はあの、美言美句でただ挨拶をしておられるとだけ思われない。今まではどうじゃったか、今は例えばならそういう風な見方をしておられる。
 それは丁度遠景に見た、富士山のような見方をしておられるわけです。例えていうと随分お徳を受けられて沢山の人が助かったり、御ひれいを輝いておる教会はいくらもあります。また長い歴史の中には、そういう教会は沢山ありました。けれども二代目になって寂しくなったり、またはつぶれたりなら例えば現在、御ひれいを頂いておるというてもです、ただ、指圧療法的なですね、手を当てて病人が治るから、どんどんお参りがあると言った様な教会もある。
 ただ教えというものはないけれども、とにかくそのそこの先生の一つのお徳でどんどん助かっておるというお参りが多いという教会もある。所が合楽の場合あのおかげの泉じゃない、あの和賀心時代をそれこそ熟読してみるとです、私の生まれる前後から、今日までの事が語ってあるわけですけど、それをふんまえて現在、和賀心時代を創るという最後の所の章の所を読んでいくとです、いかにその地盤を作ってその上に建てた、建て上げていっておるものだと言う事が、感じられるわけです。
 そして合楽の生き方いやこれが本当だぞと、皆が目を見開いて来たわけです。毎日ここか、この教会から、学院に行く人たちの、いわば信心振りと言った様なものを見てです、合楽の先生の所謂御神徳のほどがしのばれる、という意味の事を書いてあります。と言う事は私は遠景から、遠くから見た富士山のようなものではなかろうかと思うですね。例えば波の背に背にどんと打つ波は、皆あなたの度胸定めと言った様な事を、あの歌がありますように、その大きい波をかぶらんばかりのような時にはです。
 生神金光大神様、天地金乃神様だけではない、親先生と言うてすがっておかげを頂くから有り難いのです。けどもいよいよならその富士山に分け登って見るとです、その富士山はどうかというと、それこそ石がごろごろとした様なです、遠くからながめた富士山というものとは似てもにつかない、ようすになってくる。たとえばならここでよく言われますよね、昔からこれは言われる事ですけれども、勝手の方で御用を頂くと、おかげを落とすといわれとった。
 はあもうとにかくお広前ではあげん立派にしちゃるばってん、勝手の方ではもうこう色んなもんがお粗末になっておったり、あれが信心じゃろうかと裏の方へ入って、教会の人達はどうしたこのざまじゃろうかと、言う風になってくるわけです。でそれでおかげを落とすと。今度もあのご大祭の勝手の方で、御用頂いた人が何人かそう言う事の、お届けをした人があるんです。
 だから信心がでけなければ勝手のほうはでけんな、ち私は言うた事でした。腹んたっとるとです。誰さんがどういわっしゃった、彼さんがこうじゃった、と言った様な事が。かえって御用頂いて、おかげを落とした。それこそ中に分け入って、そばまで行ってがっかりした。信心がでけておらんからです。そしてどこまでもです、その富士山はです頂上を極めると言う事に、ようやくその山に分け入った、分け入ったらがっかりしたじゃもういかんでしょう。
 さあ是から遠くから眺めておったあの素晴らしい富士山の山頂を目指して、もうそれこそ、よそどん見るだんじゃなか、自分の足元だけをしっかり見つめて見極めて、一生懸命杖を頼りに登るという生き方にならにゃいけん。そうするとです足元ではなくて視野が開けてくる。ねそれこそ沢山の小さい山を従えておる富士山のその偉容というものをです、身をもって感ずる事がでける。それこそ頂上を極めて、御来光を拝まして貰う、と言う様なそこん所が、願い目指しで無からなければいけん。
 教会内又はならここの御信者さんがたの場合、所謂その有り難いというものが、段々まあいうならどう言う事になりましょうかね。まあこりゃまあそういう風に言わなければ、理がつまんからもうしますがね、こんな素晴らしい教会がまたとあろうかと、例えば思うでしょう。こんな素晴らしい教会が、又とあろうかと思う教会にご縁を頂きながらです、その有り難さというものが、段々失せて来ると言う事なんです。
 もうその事を思うただけでもです、私共はそれこそ合楽に、ご縁を頂いておると言う事はなんと幸せな有り難いことであろうかというこの喜びだけでも、私は道行が楽しゅうなると言う様な信心にならなければ嘘なんです。私はどうでもこのね、一切が神様の御働き、神愛として、それを尊い気持ちで、頂いてまいりますと、我々の一生が、皆神になる尊い道行であることが、味合われるようになります。この味あわれるようなるところまでいかなければだめです。
 例えばなら今日みてる事がない、信心をすれば誰でもおかげが受けられるというのは、そのようないうなら真の信心、だから今まで成り行きを大事にしてくる、御事柄として受けていくと言う事をもう、合楽の人達はそれを尊い気持ちで受けられる所まで、育っとかなければだめなんです。その尊い気持ちで頂いてまいりますと、我々の一生が、皆か神になる尊い、いわゆる道行きだと、もう楽しいものなんだ。
 しかも家族手に手を取っての信心なんだ。もうそれこそ家族中で、ハイキングでも行くような、楽しさなんです。いや勿論それ以上のものなんだけれど。同じ祈りに家族のものが勢を揃えて、祈り願っていくと言う事がです。真の信心をしなければです、誰でも徳が受けられると言う事ではない。その真の信心とは、今五つの願いというものがです、本気で願われる、そういう信心その信心こそが、真の信心だと今日聞いて頂いた。金光様の信心しよりゃ、誰でんお徳が受けられるちゅう事じゃない。
 私共の言うならば、一生という長い長い旅路がです、苦しいものとか情けないものとか、嫌なものとかというのではなくてです、もう楽しい楽しい光輝いた道なんです。それにはです尊い気持ちで、御働きとしてのその働きを、頂いてまいりましたと言う事になる。だからそこが、頂いて参りますとと言う事にならなければです。こういう素晴らしい道行にならんのです。今朝方お夢を頂いた。五,六人で、あのこう遊びに行ってるんです。まあ待合かなんか、芸子さんが二人来た。
 年増の芸子さんと若い芸子さんが二人来て、でいまから愈々酒盛りと言う事になったら、その若い方の芸子さんが、もう沈んだ沈んだ顔をしている。それで私があのお説教をしよる。お前達はね、座敷の花だよと芸者さんちゅうのは。私はその夢の中で言うて、はあこれは素晴らしい言葉だと。確かにそうですね。座敷の花だよとその花がくしゃっとしとって、折角沢山の金使うてから、いうなら遊びに来とるとに、いけんじゃないかというて私がまあ、少し怒ったような風にして言いましたもんだから。
 部屋の隅の方へ行ってから、もうお銚子を握ろうともしない。上の姉さん芸者の方がえらい、気つこうて心配しとる。時にはっと今の信心に気がついた。お夢の中で。ほんとにね、髪の飾りや化粧して綺麗な着物を着て、お客さんの前にはべっておるけれどもです、実際、もう金に縛られてどうにもでけない人達なのだ。見かけでは例えば、歌をうとうたりお酒を飲んだりして、その相手をしとればこげん楽しい商売はなかろうちゅうごたあるけれども、実際は金に縛られて。
 色々な苦しい事もあろう、色々な難儀な問題もあろうけれども、その悲しい顔を化粧に隠しておる人達であろうとこう思う。そしたらその二人ながら機嫌ようこうお銚子を持って、まサービスをしてくれる様子の所で目が覚めた。それは言うて聞かせると言う事はね、それはもう実に素晴らしい事なんです。あんた達はお座敷の花だよと、けども言うて聞かせたんじゃ、却って縮こまってしまって、けども自分の心の中にです。
 ほんとにこげんして、まあ綺麗な着物着て、綺麗な化粧して、ほんとに楽しかろうごとあるけれどもその実はです、苦しい悲しい事もやっぱあるに違いはないと、こちらが思わせて頂いた。たらそこに一つの和が生まれたとこういう事。是は特に思うんですけども、今日はいっちょ、楽をしようと思う様な時にです、あのそれと反対のことが起こると、えらい腹ん立つもんですね。私は昔あの誕生日という日には、何時も自分のもう気分の悪いことばっかり起こりよったです。
 この十年ばっかり前までは、なしかというと今日は私の誕生日だと、皆から祝福される日だという思いなんですね。それにそのそれと反対のことがあると、もう不愉快になってくるわけなんですね。今日はなら芸者どん揚げちから、今日はいっちょにぎおうちから、その面白おかしゅう遊ぼかというとるのに、その仲居なら仲居、芸者なら芸者が、不機嫌どんしとったら、もう、おう止めたというて席を変えたいような気持ちがするんですよね。ですからお互いがね。
 そういう時ほどさあ、是から楽をしょうなん言う様な心がだからいけないと言う事になりますね。いつも信心私はそういう中に、そのお前達はここにおっといて、お説教でもさせて、あのしたつもりであった。だからそれでああそうですね、といって付いてくりゃいいけれどそれじゃ却って、座敷の隅の方へ行ってしもうた。けどもその私の心がです、ほんとにそうもあろうとこう思わせて頂いたら、そこから和が生まれた。
 昨日竹内先生が、東京の出張の帰りに寄られました。もう今度は大変な広大なおかげを頂いた。ある大変まあ偉い方との面接があった。所がもうそれこそもうけんもほろろ、寄り付かれない様な状態じゃった。もう私も秘書も一緒にいっといてから、もうびっくりしたとこう言うのです。だから一応そこを帰られた。そしてまた翌日また、挨拶方々行かれた。そん時に先生思いました。もうほんとに最近合楽で、心ほど効くものはなかち、心ほど効くものはなかち。
 その事を思わせて頂いて、只この政治上とかそう言う事だけにはね、そんなに信心の心ばかりでいけないと言った様な心から、純粋な信心心にならせて頂いて帰った。そしたら親先生あくる日参りましたら、昨日は大変失礼してと言うて、それこそ一緒にいっとる秘書が、あまりの手のひらを返す様な状態だったからもう、こんな偉い人でも心にこんな感情のむらがあるのだろうかと、そして言うておられます、どんなに偉い人でも石井喜代司さんの言葉じゃないけども、皆が人間だかからと思うたとこう言う。
 どんなに偉い人でも人間だからと。あのあいうえおのあです、そしてこちらが所謂信心なる、もうほんとに心ほど効くものはないて言う帰りにそうしたお土産を頂いて、帰ってきたとこう言われるのです。例えばそういう人間関係とかです、例えばなら日常生活の上に今、私のお夢の中に現れてくる、ま竹内先生のそう言う様な、是はもう具体的今日の御理解を具体的にです、愈々楽しいものにしていく、味あわせて頂けれる事の為の、是はお話で御座いますよ。
 もうほんとに人生というものがです、尊い楽しい所謂道行きであると言う事を、味あわせて貰いながら、一生を終わらせて頂く生活を真の信心者の生活だと私は思うです。そこでなら、信心をすれば誰でも受けられると仰るけれども、その信心とはです。神徳は信心すれば、と仰っておられる信心とはどこまでも、だから神様を拝みよる、参りよりますというだけではなくてです、真の信心でなからなければならん。真の信心さして貰うから、誰でもが受けられるのだと言う事。



 その真の信心にです、なられるところの、いうならですね、いうなら宝の山に入っておりながらですよ、皆さんの場合は。その宝を得ずして、信心が終わったらどうなりますか。遠くから眺めておるときは素晴らしい富士山の姿形であったけれども、実際にその中に入って見たところがです、それこそごろごろしたところばっかり見える。自分の心は見らずに、そのごろごろしたところばっかりみゆる。自分の足元をしっかり見極めて、富士山の宝の山に入ったんだから、宝をうるために、これから一歩一歩登っていかなければいけないでしょう。
 石のごろごろなんてんちゅうことは気も付かん。ただ道を求めて、登っていくだけなんです。そこにご来光が拝める場というものが、頂ける。いよいよ高められていく自分の視野を広めていくことが体験さして頂ける。そういう信心にならせていただかなければです、そういう信心にならせていただけばです、誰でもお徳が受けられる。今の合楽でいっておること、今までまた言うてきたこと、もうみんな真の信心である。だからそれを身に付けずして、合楽に通うてくる値打ちはないじゃないか。
 それを身に付けようという願いがあって、信心させてもらわなければ、合楽通いの値打ちはないじゃないか。せっかく宝の山に分け入りながら、その宝を得ずして帰らなければならないといったようなことはね、こげん詰まらん話はない。そこで日に日に起きてくるその問題をです、私のお夢の中に現れておるところのお話やら、ね、今竹内先生のお話やら、とにかく自分は間違わんと思う心が悩みのもとになるのです。自分は間違っていないと思う心が、悩みの種なんです。
 皆さんが悩みがもしあるとするならね、自分というものを見極めていないからです。もう自分というものが、どんな悩みがあっても、見極めさせて頂いたら、ほんとに私のような者がと言う最低のところに頭が下がるようになったらです、もう、もうそれこそ、勿体無のうして、有り難とうしてこたえんことばっかりなんです。そこからの私は道を歩かせてもらうという信心。なるほどみてるということがない、限りなく頂いていけれる、そういう信心にならせて頂かなければなりません。
 もういっぺん、皆さん暗唱しといて下さい。一切が神の御働き、神愛として、いいですか、尊い気持ちで頂いてまいりますと、我々の一生がみな神になる尊い道行きであることが、味あわれれるようになります。その味わいを味あいつつ、信心は進めていかなければ、真の信心とはいえません。限りない言うならば、みてることがないといわれるお徳もおかげにも、頂くことはできません。
 信心は浅けれども、本願深きがゆえに、頼めば必ず往生す、というように、ただ天地の親神様はですね、とにかく、願えばおかげを下さるんだけれども、それではね、私はなるほどあの世での往生のことを言うてあるのでしょうけれども、良いところに往生することはでけない、この世でいよいよ往生しとかなければ、この世でいよいよ、有り難い所に往生しとかなければ、この世でいよいよ、有り難い楽しいという、道行がでけておらなければ、あの世で、ほんとに良い所に往生することのでけるはずはない、ということを聞いて頂きましたね。